この間、数年ぶりに関東からの知人に会う機会がありました。
そこで言われたのが「しゃべり方がおかしい」。

そんなの当然ですってば!

僕が関西に来て、JRDBに入って、もう10年くらいは経ったはず。
ちょうど伊原君と同じ時で、久保君よりも少し後のタイミング。
あのなぁ・・・10年間、毎日毎日関西弁の中にいたら言葉もぶっ壊れてくるっての。

それで思い出した。
「関西人は関西弁で喋るけれども文章だと普通なのは何故?」という話。
そんな疑問をどこかで見た事があります。

僕はネイティブじゃないので実際はどうか分かりません。
あくまで僕個人のケースです。

頭の中では一切関西弁は出てきません。
言語野には存在しておらず。です。

頭の中で文章を組み立てる時には、アウトプットされる一字一句までは構成されていませんよね?
そこにはメタ言語的なものしか無いはず。
或いはもっと断片的な単語が並んでいるだけ。
文章レベルで考えていたら効率が悪すぎますからね。思考においては無駄な要素は排除されて当然。
そして声に出して発声する時点で、実体を現し、関西弁にアレンジされる。そんな過程を辿っています。
発声するまでは言葉は確定されていないという、ちょっとしたシュレディンガーにゃんこ的事象。

「No.It's not」
「違いますよ」
「ちがうし!」
「ちゃうわ」

これらは言葉として確定するまでは、頭の中では多分同じ情報。
方言というか、言葉はきっとフィジカルなところに属していると思う。
言語的思考とは別の次元なのでしょう。
感情を乗せる分の上げ下げもアリ。

んー、口に出す直前までは、僕は関西弁ではありません。
それが何故か声に出した時には、微妙におかしいエセ関西弁となってしまいます。
つまり言葉自体の問題では無く、口の動かし方がおかしくなった。
「おかしい」というと失礼かもですけれど・・・純粋に発声する時の口の運動的問題なのかなと。
スポーツ選手が一連の訓練された動作をこなすように、僕の口からも言葉が発せられているのです。

今こうやって記事をタイプしている時には喋る言葉とは違う文字となっていますよね。
頭の中では同じ情報でも、口でアウトプットされるのと、タイプしてディスプレイに映し出されながらでは最終的な形は変わります。
手で喋っている、と言い換えても良いかも。
自分の体のパーツ毎ですら出力の形が変わるというのは、なかなか面白いですね。
喋るよりも書く方がより文章を意識するので、無意識に入り込むおかしなクセが排除されるという面も大きいのでしょうけれども。

でも、もし世の中の活字が全て関西弁だったとしたら、手だって口と同じく動きは影響されてしまうんだろうなあ。
「でも、もし世の中の活字が全部関西弁やったら、手も口と同じように動きは影響されるんちゃう?」
↑という世界にだってなり得る。


結論としましては、
思考の中では関西弁は存在せず。
あれは単に口の動かし方のクセである。
これが僕個人の答えとなります。